当院由緒
禅居院は、臨済宗建長寺派に属し、
山号を石屏山と申します。
本山建長寺の二十二世住職、
清拙正澄・大鑑禅師を
開山とする塔頭寺院であり、
小笠原貞宗公を開基として、
元徳年間(1329年頃)に創建されました。
大鑑禅師は、中国からの渡来僧で、時の執権北条高時の招きにより1326年に来日、建長寺22世住職を務めた後、
鎌倉五山の浄智寺、円覚寺、京都五山の建仁寺、また五山の上位とされる南禅寺の住職を勅命により歴任されました。
日本禅宗における行事作法を整備するなど、数多の功績を残され、1339年66歳で建仁寺塔頭禅居庵で亡くなられました。
自筆の遺偈は国宝に指定されています。当院本堂の内陣に安置されている開山像は、1688年(開山350年遠忌)に制作されたものです。
本尊は、鎌倉時代後期に作られた聖観世音菩薩像。ゆったりと寛ぐようなそのお姿から「遊戯坐像」と呼ばれ、
宋風立膝半跏像の流れを汲んだ、鎌倉仏教彫刻の最も秀でた作例の一つとされ、県の重要文化財に指定されています。
時代を越えて、人々の信仰を守り、また人々の信仰によって守られてきた、端正かつ静謐な微笑みを湛えておられます。
寺伝には、当院鎮守摩利支尊天は、開山来日に当たり、元国皇帝より下賜されたものと伝えられています。三眼・三面・六臂、一面に猪顔をあらわし、五頭の猪が支える蓮台に安座され、蓮華座の内部には秘仏の小像を納めます。
摩利支天は、陽炎を神格化した古代インドの神を起原とし、陽炎の如き変幻自在の働きを示現する尊天は、よく猪の背の上に舞踏する戦士の姿に造形され、
六本の手にそれぞれ武具を持ち、矢を射かけると同時に、斬りかかり、また衆を率いて号令を発する。その姿はいかにも陽炎や猪の属性に象徴される通り、智慧の働きの光輝・迅速・力強さを表します。古来より勝利の神として多くの武将に崇められ、また平安の世には、開運の利益をもたらす智慧と力の神として篤く祈願されました。